Ryi’s bike & run

神奈川近辺の走って楽しい自転車ルートを探索中

近況など

すっかりブログがご無沙汰になっていました。

更新できなかった主な理由は体調不良により、自転車もランニングも全然できなかったからです。

2016年の1月に椅子から立ち上がった瞬間に腰に激痛が走り、2日間くらいまともに立てない状態となりました。その後ある程度まで回復したのですが、そのある程度から先には回復せず、ここ1年くらい横ばい状態が続いている感じです。日常生活にはそれほど支障はないのですが、長時間歩いたり、電車で20分くらい立ったりしていると腰にかなりの痛みを感じ、ランニングもいまだに控えている状態です。原因は… いろいろ推測したり病院行ったりしましたが、正直わかっていません。

そしてもうひとつの体調不良として、1年ほど前に「慢性前立腺炎」というものになりました。この病気は自覚症状が出るまで3年くらいかかるらしいので、実際発症したのはもっと前ということらしいですが。

 

(ここから先、前立腺と“タマ”に関する話が続きますので、そういう話はちょっと… という方はてきとうに読み飛ばすか別の記事に移動するなどしてください)

 

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きっかけは椅子に座って仕事をしていた際に、睾丸に違和感を覚えたことでした。痛みというより違和感、といった感じです。なんとなく重い感じがあり、たまにヒリヒリするような感じもありました。場所が場所なので本能的にとても嫌な感じがし、最初は気のせいだと思い込もうとしました。あるいはたまたまなんらかの圧力がかかって調子がおかしくなっただけで、すぐに収まるだろうと。

しかし波はあるものの、数日経っても1週間経っても、やっぱり違和感は消えませんでした。寝ると症状が弱くなり、朝起きた瞬間は感じなかったりもしたので、「あ、今度こそ消えたのではないか」と期待するのですが、午後になる頃には決まってまた戻ってきて、日が経つにつれてこれはやはり何かが起きているに違いないと思うようになりました。

ランス・アームストロングもそうですが、自転車乗りは睾丸の病気になりやすいなんて聞いた気がするし、考えれば考えるほどこいつはなんか深刻な病気なのではないかと思い込むようになって、勝手に自分を追い詰めていたと思います。元々病院が好きでなく、行くのを渋っていたのもよくなかったと思います。しょうもない話ですけど、病院に行ったら何か恐ろしいことを言われるにちがいないと思い、その現実から逃げてたところもありました。

しかしそんなことしてても症状が変わるわけもなく、どんどん勝手に変な方向に考えていくだけだったので、ええいと決意して病院に行くことにしました。場所が場所だけに最初は診察してもらうのに抵抗があったってのもあるんですが、この頃にはそんなことどうでもいいくらい余裕がなくなってました。

そして「慢性前立腺炎」という診断が出ました。結果的に命に影響するとか、そういった深刻な症状ではなく、それは一安心ではあったのですが、炎症が起きていることは確かなので、薬を飲んで治療することとなりました。座り仕事が多い人などに発症しやすいようですが、はっきりした原因はわからないようです。飲む薬は基本的に漢方薬で、回復には個人差があり、早ければ数か月、1年以上かかる人もいるとのことでした。ちなみに念のため別の病院にも行って診察してもらったのですが、やはり同じように慢性前立腺炎だと言われました。

症状がとりあえずそれで間違いなさそうだということで、精神的には落ち着いた(何が起きているか分からないときが一番精神的にきつかった)ものの、自転車には乗り辛くなってしまいました。実際長時間椅子に座ったりすると痛みが出るし、自転車もやはりよくないと言われました。乗ったら絶対駄目とまでは言われていないのですが、もし症状が悪化したらと思うと、どうも乗る気が… というのが正直なところです。

毎年エントリーしていたツール・ド・三陸だけは痛み止めを飲んでどうにか完走しましたが、何か月も自転車に乗っていないぶっつけ状態で出たため、坂の途中で心が折れそうになりました(それでも楽しかったですが)。

 

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(すっかり乗られなくなってしまったRaleigh号…)

最近は症状も大分改善したのですが、一定時間以上椅子に座ってるとやはり痛みを感じるので薬は飲み続けています。症状が完全に消えたらまた自転車に乗りたいとは思いますが、さていつになるか……

腰のほうは整形外科に行ってレントゲン撮ってもよくわからないと言われ、しかし痛みは消えないので最近は調べて評判のよかったカイロプラクティックに通い始めました。通い始めて2か月弱くらいで、正直よくなってる実感はないのですが、施術を受けながら聞く話はとても興味深く、身体の仕組みなどについて改めて気づかされることが多いです。カイロは最低でも3か月は通ったほうがよいと聞いたこともあるので、もうしばらくは通ってみようと思っています。



……という感じで、腰によってランニングが断たれ、前立腺によってサイクリングも断たれるという、自分にとってはかなり気持の落ち込むここ1年でした。その状況は未だ継続中なわけですが、どうにか身体を立て直して、ふたつのうちの片方でも再開できたらよいなと願うこの頃です。



 



ツール・ド・三陸2016にエントリー

昨年末に身体を負傷したため今年は自転車に乗れておらず、ロングライドもすっかりご無沙汰だったのですが…

岩手県陸前高田市大船渡市で9月25日に開催される『ツール・ド・三陸2016』のエントリーが始まったので、今年もエントリーしました。

ツール・ド・三陸 サイクリングチャレンジ 2016 in りくぜんたかた・おおふなと

早いものでこれで4年連続の出場です。

ツール・ド・三陸はもともと最長でも平地を50kmほど走るコース(沿岸部を走るので多少のアップダウンはある)しかなかったのですが、去年「健脚Mountain」というちょっとした登りを加えたコースが加わり、今年はそれよりもさらに獲得標高を増やした

剛脚もののけコース

という新コースが新設されました。

そして距離も64.5kmまで延びました。

 

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(写真はツール・ド・三陸のウェブサイトより)



こうして新コースを作ってくれると、一度出たひともまた出ようという気になりそうですし、かさ上げ工事との兼ね合いで大変な中、毎年いろいろ趣向を凝らしてくれてありがたいことだなと思います。

去年は「健脚Mountain」に出たので、今年は是非新コースに出たいな、と思ってエントリーしたところ、無事に「もののけ」コースにエントリーできました。

コースの5km地点くらいからぐわっと登る道は、頂点付近に「玉の湯」というお風呂屋があって、何度か行ったことがあるのですが、車でも「玉の湯までの坂は急だよなー」なんて言っていたところです。僕の友人が冬場に車で行こうとしたら登れずに引き返してきた、なんてこともありました。カーブのないまっすぐの坂道が続いて結構勾配があります。

ツール・ド・三陸は「ゆるくのんびり楽しむイベント」という印象もあったのですが、毎年じわりじわりとコースの難易度をあげてきているので、例年のイメージに油断せずにしっかりコンディションを作らねばと思いました。



ちなみに僕が期待するツール・ド・三陸の新コースは:

<高田・住田・大船渡グランドサークル
高田市役所 → 竹駒 → 住田 → 盛 → 碁石 → 広田半島


こんな形で大きく円を描くような壮大なコースが誕生しないかな、と妄想したりします。ルートラボでざくっと作ってみたところ、これで大体80kmくらいになり、大船渡もばっちり通ることになります。

大会名が「in りくぜんたかた・おおふなと」となっているわりには、大船渡を走れるのが現状ちょっとだけなのが前々から残念で、このコースだと高田・住田・大船渡3か所が盛り上がるんじゃないかなあと思ったりするのですが。

津波で破壊されてしまった高田に比べ、大船渡は(多大な被害は受けたものの)市街地が健在で交通も活発なので、いろいろと大変なところはあるのかなとは思いますが。

現状でも十分素晴らしいイベントなので、ないものねだりの願望ではあります。

 

 





Ride 10: ツール・ド・三陸2014

日時: 2014年11月2日
ルート: 高田第一中学校仮設グラウンド(陸前高田)~ 碁石海岸レストハウス(大船渡)~ 黒崎温泉 ~ 高田第一中学校仮設グラウンド
距離: 約49km

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岩手県陸前高田市・大船渡市で行われたツール・ド・三陸に参加した際の写真と感想です。

ツール・ド・三陸は震災の翌年になる2012年に初開催され、続く2013年、2014年、2015年にも連続して開催されています。自分は2013年から毎年参加しているのですが、今回載せたのは2014年に参加した際の様子です。

陸前高田市津波で町が壊滅状態となりました。現在沿岸部の大規模なかさ上げが続けられていることもあり、コースは毎年少しずつ変化しています。またその影響により毎年開催が危ぶまれたりしているのですが、2016年も開催されることが先日発表されました。

このイベントを知ったのは2012年の夏でした。震災ボランティアで陸前高田に通っていた際に、現地の自転車屋のおじさんから教えてもらったことがきっかけです。その時はもう募集は締め切られており参加できなかったのですが、その翌年にこのイベントに出るためにロードバイクを購入し、出場しました。

なので自分がロードバイクに乗るきっかけを作ってくれたイベントでもあります。


<前日>

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前々日の夜に神奈川を出発し、1日の朝に岩手に到着。
車への搭載はこんな感じ。


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そのまま陸前高田の復興サポートステーションに行き、ボランティア活動。

高田のボランティアセンターは震災後組織や場所が変わりながらも、現在も活動中です。がれき撤去や側溝の泥出しなどが多かった震災の年から、年月を経るごとに活動の内容は変化してきた印象で、最近は現地の農業・漁業支援や、失われてしまった松原の復旧活動、古川沼と呼ばれる場所での遺骨捜索などが中心になっています。詳しくは以下のサイトをご覧ください。

pact-rt311.org

 

休みの日などはありますがボランティアは常に受け付けております。


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河の向こうに見えるのが、かさ上げのために設置されたベルトコンベヤー。

近くの山を切り崩して土を直接運ぶという、かなり大がかりな設備でした。最近その作業が終わり、ベルトコンベヤーの解体が始まったとのことです。これらは2014年11月の写真ですが、現在でも町があった場所は人が住めない状態となっています。

陸前高田の町は起伏のないフラットな形状で、湾も開けていたことから津波の直撃を受け、岩手県でも最も多くの人が亡くなりました。現在までに確認された死者数は1600名以上、行方不明者もまだ205名(2016年2月現在)いるとのことです。

かさ上げ工事との兼ね合いなど難しいところもあるようですが、まだ捜索し切れていない場所などが残っており、上記したサポートステーション等による捜索や、海中捜索を要望するための署名活動なども行われています。

www.yomiuri.co.jp



<当日>

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イベント当日です。
この日は「天気予報100パーセント雨」くらいに言われていて覚悟していたのですが、開始間際に雨がやんで、後半はすっかり晴れ渡りました。現地では「奇跡の晴天」などとも言われていました。

この年の参加者は確か1000人ちょっとくらいだったと思います。コースは沿岸部を走ることが多いので多少のアップダウンがありますが、ロードに普通に乗っている人であればまず苦しむことはないレベルかと思います。クロスバイクやママチャリで参加している人もいました。

自分たちは地元神奈川の仲間と震災後に現地で知り合った仲間の、計5人で参加しました。

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8時になり、スタート。
まずは破壊されてしまった高田町の中を走り抜けます。


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至る所に応援してくれる方たちが。


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グループに分かれての順々スタートですが、スタート後は基本的に各々のペースで走れます。無理な形でなければ追い抜きなども全然OK。

レースではないので基本的に交通ルールに従って走行します。信号は確かコース中に一箇所だけだったと思います。

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途中で隣の大船渡市へ。

ツール・ド・三陸は「陸前高田市」と「大船渡市」のふたつの市によって開催されています。大船渡市もまた津波によって激しい被害を受けました。

現状のコースの大部分は陸前高田を走るので、個人的には大船渡をもう少し走れるような長いコースが増えたらいいなと思います。


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15.5km地点にある、碁石海岸レストハウスの第一エイドステーションに到着。

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ツール・ド・三陸はコースも比較的優しく、ガツガツ走るというよりは三陸の現在の様子を自転車に乗りながら知るという主旨が強いイベントなので、全体的にすごく温かくてなごやかな雰囲気。エイドでは現地の方の手作りのおにぎりや特産物なども味わえます。


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2013年、2014年とゲストライダーで参加していたのが、元ツール・ド・フランス王者のグレッグ・レモン氏です。

僕は2013年に参加した際にトイレで偶然鉢合わせ、いきなりのことで戸惑ってしまい軽い挨拶しかかわせませんでした。わざわざ来てくれてありがとうと、お礼くらいしっかり言えばよかったなあと今でも少し心残りです。すごくオープンで壁のない感じの人で、記念撮影などにも気軽に応じていました。

このほかにもゲストライダーとしてハンドバイクの元世界王者でパラリンピアンのグレッグ・ホッケンスミスさん、日向涼子さん、山田玲奈さんが参加。日向さんは第一回から毎回参加されており、翌年の2015年には片山右京さんも参加。右京さんはエイドで向こうから声をかけてくれて写真を撮ってくれたりと、気さくな感じでした。


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補給を終えて出発。

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少し走ると、後から出発してきたグレッグ・レモン氏が横からシャーッと抜いていきました。なんと贅沢な経験…

大分ウェイトも増えてるし、どれくらい走れるんだろうなーなんて失礼なことを思ってたんですが、やはり速かったです。坂をグイングイン登っていきました。


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第一エイドの後は半島の沿岸部に沿って走るので、海を見渡せるポイントなども結構あります。


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もともと電車の踏切だったところ。

ドラゴンレールの愛称で呼ばれた列車が通っていましたが、津波で線路が流されました。今はBRTと呼ばれるバスがこの線路跡を走行しており、列車代わりとして機能しています。

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ところどころに勾配のきつめな坂がある。


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でもそういう坂の途中には、大体地元の人たちが立ったり座ったりしていて、
「あと少しだよ。坂、大変だけど頑張って!」と応援してくれる。


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次のエイドステーションのある黒崎温泉を目指し、広田半島へ。


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沿道の声援が本当に温かい。
「来てくれてありがとう」と言われるともう、
とにかく「ありがとう」といって手を振り返すしかない。


破壊された光景や、急ピッチで進められるかさ上げによって変貌していく町の様子など、いろいろ複雑な感情が喚起させられたりもするのですが、とにかく温かさに包まれたイベントというのがツール・ド・三陸の印象です。


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第2エイドステーションまでもう少し。


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スタートから27Km、黒埼温泉脇にあるエイドステーションに到着。

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近くに海を見渡せる場所があるので、みんなで見に行く。

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素晴らしい眺め。

このエイドの横には黒崎温泉という温泉があるのですが、そこでは風呂に入りながらこうした絶景が眺められます。

ちなみに2015年は地元の祭りとの兼ね合いもあり、このエイドステーションは使われませんでした。2016年はどうなるかな?

 

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車いすに乗っているのは、ハンドバイクのタイムトライアルの元世界チャンピオンでパラリンピックにも出場したグレッグ・ホッケンスミスさん。

奥さんと一緒にゲストライダーとしてイベントに参加されていました。
海に行くタイミングが一緒だったので、道中で話をすることができました。

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再びエイドステーションへ。
ここでもグレッグ・レモンは大人気。右端に日向涼子さんもちらっと。


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大漁旗が掲げられたポイント。

津波の高さを示す建物があったり、震災当時のことを説明してくれる方などがいたり、ツール・ド・三陸というのはとにかく走るだけでいろいろなことが体感としてわかるイベントだと思います。

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ここもまたコースの名所のひとつ。
広田湾と、そこで行われている牡蠣の養殖いかだが一望できる、なかなか圧巻の眺め。大体みんなここに来ると、自然に自転車を降りて写真を撮り始めます。


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ツール・ド・三陸もいよいよ終盤へ。

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震災の年と次の年くらいはボランティアの作業現場の多くがツール・ド・三陸のコースとなった広田半島周辺だったこともあり、走っているといろいろと思い出が蘇ってきたりもしました。


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自転車イベントの名物男、悪魔おじさんもいました。

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再び高田町に入る。ゴールまであと少し。

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前日の雨でグラウンドがぬかるんでいたため、最後は自転車から下りてゴール。

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この年は地元の産業まつりとの同時開催だったため、ゴール/スタート地点には、たくさんのお店が出店していました。

走り終えた1000人以上のサイクリストたちが加わったため、いっそうにぎやかな状態に。


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いくつか買って、芝生の上に座って食べる。


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終わってしまった…あっという間だった。

ツール・ド・三陸、いいイベントでした。

震災以後、陸前高田市と大船渡市、そして被害のあった東北沿岸部には自衛隊、警察、工事関係者、ボランティアを含め、たくさんの人々が訪れ続けています。

誤解を恐れずに言うと、僕はこのツール・ド・三陸に参加したとき、町の人に初めて本当の意味で歓迎してもらえたような気がしました。

ツール・ド・三陸はみんな純粋に楽しむためにやって来る。復興作業ではなく、楽しむためにたくさんの人が自分の町にやって来る。そのことが現地の方にとっても嬉しいのではないかと思います(もちろん復興作業は大切ですが)。
走る僕らも楽しいし、それを応援する地元のおばちゃんや子供たちも楽しい。それがこのイベントのなんとも言えない幸福感を作り出しているように感じました。

これからも参加し続けたいイベントです。

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アメリカの白人最速マラソンランナーが引退



アメリカのマラソンランナーで、2時間4分58秒(参考記録)の自己ベストを持つランナー、ライアン・ホールが今年の夏のオリンピックのトライアルを前にして突如引退を表明したという記事が出ていた。

Ryan Hall, America's Fastest Marahoner, Is Retiring

"アメリカの最速マラソンランナー、ライアン・ホールが引退へ"

http://www.nytimes.com/2016/01/17/sports/ryan-hall-fastest-us-distance-runner-is-retiring.html?ref=sports

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⇧この後、記事の題名が
His Strength Sapped, Top Marathoner Ryan Hall Decided to Stop

"力の衰弱により、トップマラソンランナーであるライアン・ホールが引退を決断"

に変更されていました。おそらく「アメリカの最速マラソンランナー」という表現が原因だったのではないかと推測します。僕自身この表現はたして適切だろうかと思い、こちらの見出しでは「アメリカの白人最速マラソンランナー」としたのですが、やはり誤解を招くという指摘でも入ったのかもしれません。
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ホールの引退の理由は激しいトレーニングによるテストステロンレベルの低下で、最近では1週間で12マイル(約19キロ)を走るだけでも激しい疲労を感じるようになっていたという。

ホールはそのストイックな練習方法で知られており、標高約2700メートルの山から11キロを駆け下りてさらにそれを走って登り直すといった激しい追い込み型のトレーニングを行うなどして、全米でもトップクラスのマラソンランナーとなった。

『Born to Run』の著者クリストファー・マクドゥーガルは、アメリカ人ランナーは前世紀に比べて随分遅くなってしまったと書いた。その原因はトレーニング方法やランナーのメンタリティの変化、そして走法にあると分析していたが、純粋なアメリカ育ちで白人のホールはその傾向にひとり異を唱えた存在だったようにも思う。

彼が2011年のボストンマラソンで出した2時間4分58秒というタイムは国際的な記録としては認知されていない。下り坂の多いボストンマラソンは高速タイムが出やすいコースで、公式記録を測定するコースとして認定されていないからだ。このときホールはこのタイムで走りながら4位に終わっている。優勝したのはケニアのジョフリー・ムタイで、追い風の力も借りながら2時間3分2秒という当時の非公式世界記録を出している。

(ちなみにアメリカ国内においてこのボストンマラソンのタイムというのは限りなく公式に近い記録として認識されている印象があり、ニューヨークマラソンほかその他のマラソン中継を見ていてもボストンの記録が自己ベストとして紹介されていたりする)

ホールの国際的に認められている自己ベストは2008年にロンドンで記録した2時間6分17秒で、アメリカ人としては現在歴代2位の記録となっている。歴代1位はモロッコからアメリカに帰化したアーリド・ハヌーシが2002年にロンドンで記録した2時間5分38秒だ。ちなみにホールの記録2時間6分17秒というのは、日本人男性が樹立した歴代最高記録である2時間6分16秒(2002年 / 高岡寿成)と1秒違いとなる。

ホールは現在33歳で、夏のオリンピックの候補者として期待されていたが、本人の身体はそこに向かっての追い込みに耐えられるだけの力を残していなかったようだ。

ホールは引退を決めた理由を次のように説明している。

“Up to this point, I always believed my best races were still ahead of me,”
I’ve explored every issue to get back to the level I’ve been at, and my body is not responding.”

「今の今まで、僕は自分にとっての最高のレースはまだ先にあると思っていた。あらゆる分析をして自分のレベルをもとに戻そうとしたが、身体が反応してくれなかった」

ホールは大学を卒業してプロになった頃から自分のテストステロンのレベルの低さに気づいていたという。彼の場合は健康面の理由から薬を使ってそのレベルを上昇させることが許可される可能性があったというが、副作用(依存症と生殖機能の低下)と倫理的な懸念からそれを拒否してきたという。そして自然療法や食事の研究、体重の軽量化などを試してきたが、その値はついに戻らなかった。

激しいトレーニングを行えば、テストステロンを含む男性ホルモンの値は低下する。しかしトレーニング量を調整するのではなく、ホールのチームメイトが言うところの「自分の鎧に大きく開いた隙間に剣が入り込まないことを祈る」、つまりある種の「賭け」に出た彼は、ひたすら走りこむことで自らの限界を引き上げようとした。

“When I was getting into the sport, jumping into the marathon, people told me to wait and hold out, I needed to work up to it,” he said. “I said: ‘Whatever, that’s not true. I’ve been running 100 miles a week since I was 17, in high school, and I’m ready.’ But training at that level for so long takes a toll on your body for sure.”

「マラソンに参戦しようとしたとき、周囲にはもう少し準備をしてからにしろと言われた。だから言ったんだ。"僕は17歳のときから週に100マイルを走ってきた。準備はできている"とね。ただそうしたレベルのトレーニングを長く続けていれば、確実に身体を痛めることにもなる」

このニューヨークタイムズの記者はホールのその姿勢について、次のような問いを投げかけている。

ホールの過激なアプローチが彼のパフォーマンスを助けたのか、それとも仇となったのかは確かめようがない。もし彼がそこまで身体を追い込むようなトレーニング方法をしていなければ、彼はもっと速く走れていただろうか? それともそのようにトレーニングをしなければ、自分のピークに達することはできなかったのだろうか? いずれにせよ、彼が東アフリカ勢に占拠されたマラソン界で、競う立場を手にすることができた数少ないアメリカ人だったことに変わりはない。

この記者が言う「東アフリカ勢」のランナーたちについて、しかしホールはこのように言う。

"...I don’t see any difference between them and me. White people can race Africans.”

「僕は彼らと自分の間にいかなる違いがあるとも思わない。白人だってアフリカ人とレースで戦うことはできるんだ」


ホールは昨年10月、エチオピアの孤児院にいた4人の子供を養子にした。同じく一流のランナーである妻のサラと共にエチオピアでトレーニングをした際に知り合った子供たちだという。これからは妻や他の選手のコーチとして、そして父としての生活を第一に考えて暮らしていきたいとホールは語る。

記事によればアメリカには有望な若手マラソンランナーが育っておらず、ホールの引退により今度のオリンピックトライアルにおける最有望株は現在40歳のメブ・ケフレジギ(エチオピア出身)になるだろうと言う。

とにかく練習し、走りこんだものが強くなるのか、休息とのバランスを考えて適度の調整を加えて走りこんだほうが結果的に強くなるのか、マラソンの永遠のテーマとも言えるが、ホールのキャリアは前者の道を選んだ者のひとつの結果をあらわしているようにも見える。

個人的には一万メートルの全米記録保持者であるゲーレン・ラップがマラソンに転向してくれないかと思っているのだけれど、日本と同じくアメリカのマラソン界の苦闘時代はまだ続きそうだ。






ボーヘルトへのUCI裁定に対するランディスの反応、そしてランス・アームストロングの今



ツール・ド・フランスのステージ優勝者であり、そのほぼ全キャリア(1997~2007)においてドーピングをしていたことを認めていたマイケル・ボーヘルトに対するUCI(国際自転車競技連合)の裁定が出た。

それを受けてのサイクルロードレース界の反応が興味深いことになっている。

UCIのボーヘルトに対する裁定:
・2年間のサスペンション(競技に関わる活動の停止)
・2005年~2007年の間に残した成績のはく奪

またボーヘルトはルームポット・オラニエ・ペロトンでチームマネージャーの地位についていたが、それも辞任することになったとのこと。

1997~2007年までドーピングをしていたのに、なぜ成績が取り消されるのが2005~2007年の間だけなのか? また同じようにキャリア全体にわたってドーピングをしていたランス・アームストロングが生涯追放処分を受けたのに、なぜ彼は2年間の謹慎だけで済むのか?

よくわからないと思っていたら、ランス・アームストロングが今回の裁定に対してTwitterでこのような反応をしたらしい。

UCI_cycling Pure. Bullshit.

UCIへ - まったくもってクソのような裁定だ)

www.cyclingnews.com


このツイートは現在確認できないので、その後削除したと思われるが、欧米メディアはこのランスの反応をいち早く報道し、それにいざなわれるかのように今日になってフロイド・ランディスが声を上げた。ランディスはかつてランスの良きチームメイトであり、その後自身のドーピング騒動を巡ってランスと決裂した立場にいる。ランディスもまたドーピングを行ったことでUCIによる厳しい裁定を受けたひとりだ。

今日(現地時間1月9日)のCyclingnews.comの報道 ↓

www.cyclingnews.com


この記事によるとランディスはこのように語ったという。

マイケル・ボーヘルトが2年間の謹慎処分を受けたと聞き、最初に思ったのは「短すぎる。そして遅すぎた」ということだ。

ランディスは自身のドーピングを告白した際に、2006年のツールでボーヘルトとドーピングについてオープンに話し合ったことを明かした。だが当時ボーヘルトはそれを否定し、自分はクリーンであると主張した。

さらに同じ記事の中でランディスはこのように語っている。

あの男(ボーヘルト)は10年間にわたってドーピングをしていた。しかし俺が2010年に自身のドーピングについて認めたとき、やつは俺のことを「傲慢な腰抜け野郎」と呼んで自分はやっていないと主張した。事実に照らし合わせればその発言は明らかにおかしい。あるいはやつは単に禁止薬物を使用するという以上の何かにからんでいたのかもしれないがね。

この「以上の何か」とは何か、ランディスははっきりと述べていないが、あるいはボーヘルトとUCIの間になんらかの癒着があったことを示唆しているようにも聞こえなくもない。

さらにランディスはランスのTwitterによる反応についても述べている。
ランスもまた、ランディスがドーピングを告白した際には自らの潔白を主張し、ランディスを激しく攻撃したひとりだ。ランディスの中にはそのときからの恨みがいまだ生々しく渦巻いているとみえ、こちらの発言はさらに辛辣だ。

だが、もっとふざけているのはアームストロングの発言だ。やつは今じゃまるで偽善を取り締まる警察官でも気取っているように見える。かつてサイクルロードレース界で最も強大な力を持っていたアームストロングは、自身はドーピングを行う一方で、そのコネクションを駆使してUCIを動かし、タイラー・ハミルトンやその他の選手を(ドーピング違反の)標的にさせてきた。それが今では自分のことを棚に上げて批判する側にまわっているのだからね。鏡の前で自分に向かって語るならまだしも、その他のいかなる状況においてもやつから「偽善」という言葉を聞くなんてのは、お笑い種以外のなにものでもない。

先日フルームの自伝の感想(続・クリス・フルームの自伝 ~ウィギンスとチームスカイ~ )を書いた際も、フルームのドーピングやランス世代の選手に対する発言が興味深かったので、そのいくつかを少し引用したが、ロードレース界に蔓延したドーピングの余波はまだまだ鎮まりそうにない。

ちなみに僕はランスのファンではなかったけれど、全盛期の彼の走りを感嘆の思いで見ていたひとりであり、その後のドーピング発覚は人並みにショックだった。彼の罪は明確ながら、個人的にはUCIの裁定に対して疑義もある。

それだけにいまだにランスのことが気になってはいる。
昨年のはじめに久しぶりに公に動く姿をあらわし、BBCのロングインタビューに答えるランスを見たが、年齢よりもずっと老け込み、発言にもかつての力がまったくなくなっていたことに驚いた。
以前の自宅を売り払い、今は地元テキサスで自転車ショップを経営している(インタビューはそのランスの店で行われた)ランスは、大分生活に疲れているような様子で、以前に比べると殊勝な発言を繰り返していた。

ただその長いインタビューの中で印象的な発言がふたつあった。

ひとつはチームディレクターだったヨハン・ブリュイネールについて。
彼はインタビューの中で自らの罪を認めつつも、自らの現役生活のすべてがまやかしであったわけではないとし、レースでライバルと競い合ったことや、チームメイトと食事をしたことや、ヨハンと濃密な日々を過ごした時間はかけがえのないものであったという主旨の発言をした。ヨハン・ブリュイネールの名が出たのはほんの一瞬のことだったが、多くのチームメイトと決裂した関係にある彼が今でもブリュイネール対しては肯定的に思っていることがわかったのは興味深かった。

そして彼はこうも言った。たとえ皆が認めなくても、この記憶は自分が獲得したものであり、誰であれこの記憶を自分から奪うことはできないと。

"My memories"、とランスは何度か強調するように言った。このときだけ、彼の言葉には僅かに力が宿った。すべてを失った彼にとって、記憶だけが確かに自分があの場所に存在した証であるかのように。

そしてもうひとつの発言はドーピングについて。
BBCのインタビュアーの「(機会があれば)あなたはまたドーピングをするか」という単刀直入な質問に対し、ランスはこのように答えたのだ。

"If I was racing in 2015? No, I wouldn't do it again. Cause I don't think I'd have to do it again. If you take me back to 1995, when it was completely entirely pervasive?"
「もし2015年に走るとすればやらないだろう。なぜならその必要がないからだ。だがもしまた1995年の、あのドーピングが蔓延していた世界に戻るとしたら?」

ランスはそこで一瞬言葉をつぐみ、そして肩をすくめるようにしてこう言った。

"...I probably do it again."
「…またやるかもしれないね」

それは世間的には決して褒められた発言ではなかっただろう。
僕もそれを聞いて嬉しくは思わなかった。しかしその言葉を聞いたとき、ランスはまだどうにかランスでいようとしている、と思った。
「やるかもしれないね」と言いつつ、ランスの表情に自信はなかった。少し怯えているようにも見えた。その言葉が引き起こす世間のリアクションを考えていたのかもしれない。ただそれを言うことで、かつての自分の日々をかろうじて守ろうとしているように思えた。ハミルトンも「シークレット・レース」の中で言っていたが、王であることでしか自分のアイデンティティを見出せないランスの不幸をそのときに少し感じた。





今回こうした報道があったことで、久しぶりにランスはどうしているのだろうと調べてみると、こんな記事が見つかった。

running.competitor.com


"ランス・アームストロングがカリフォルニアで開催された35kmのトレイルランニングレースに勝利"

2015年の12月にカリフォルニアで開催されたトレイルランニングレースにランスが突如出場し、3時間0分36秒で勝利をおさめたというのだ。
主催者はランスが大会に参加したがっていることを、大会の5日前にランスの友人を通して知ったという。ランスは自分で参加費を払い、本名で申し込みをしたらしい。主催者は逡巡したものの、最終的にはその参加を受け入れたという。

ちなみに激しいアップダウンのあるトレランで35kmのコースをほぼ3時間で走り切るというのはかなりの速さで、44歳のランスがいまだにアスリートとして相当な力を持っていることがわかる。彼のことだから相当な猛トレーニングを積んだのだろう。トレイルランニングはドーピングチェックが比較的緩く、最近はそれが問題にもなっているようだがはたしてランスは…… あれだけのことがあったのだからさすがにもう手は出さないだろうと思いたい、が、その確信を見る側に持たせるだけの信頼を彼はおそらく一生取り戻せないだろうし、彼自身もそれはわかっているだろう。

元々トライアスロン出身のランスは、一度目の現役引退後にニューヨークマラソンに出場して、サブスリー(フルマラソンを3時間以内で走る)を達成したこともあるが、それはドーピングを認める以前の話だった。BBCのインタビューでは最近はあまり自転車に乗っていないことをうかがわせる発言もしていたので、さすがに今はアスリートとしての心も折れてしまっているのではないかと思っていた。それだけに今回のニュースは小さな驚きだった。

走り終えたランスはこのようなツイートをしたという。

“Can’t remember the last time I had this much fun suffering for 3 hours,”

(3時間苦しみに身をおくことでこんなに楽しい思いをしたのは、いつ以来か思い出せないな)

ランスはまだランスであり続けようとしているようだった。

現役の選手、現役を終えた選手、いまだ現役であり続けようとする選手。
一度は見るのをやめようかとも思った自転車競技だが、やはり痛みも興奮も含めてあの日々を提供してくれた彼らの行く末が気になる。
今後も見続けていこうと思った。






Ride 09: 志賀高原ロングライド(2014)

日時: 2014年10月25日
ルート: 高天ヶ原 ~ 野沢温泉スキー場 ~ 高天ヶ原
距離: 約115km
道の楽しさ: A+

<ルート雑感>
長野県の志賀高原で開催された第一回「志賀高原ロングライド」。

標高1640mの地点(高天ヶ原)からスタートし、標高600mの野沢温泉スキー場まで下りて折り返しとなる。後半は前半のルートをひたすら登り返し、高天ヶ原まで戻ってゴール。

前半下り、後半登り、というわかりやすいルートで、後半はけっこうきつかったけれど、それだけに終わったときは達成感があった。また全行程で信号はひとつもなく、大自然の中をひたすら走れるというのも魅力。

第一回ということで参加人数はそれほど多くなかったが、ボランティアスタッフの方々も皆親切で、エイドでは現地の特産物なども食べることができ、ポイントによっては見事な紅葉も楽しめる素敵なイベントだった。


 

高原を走る、という趣旨に引かれて申し込んだ「志賀高原ロングライド」。
第一回ということで情報が少なく、コース図を見るとなかなか登りがきつそう。
スタートは早朝だったので、前日に現地入りして受付をすることに。

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スタート地点となる志賀高原の高天ヶ原。周辺にはスキー場とホテルが集まっており、その中のホテルのひとつが受付会場となっていた。
現地に着くと、すでに自転車を積んだ車がたくさん集まっていた。

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一緒に行った友人と共にそれぞれの自転車を組み立て、辺りを少し試走。
標高が高いのでやはり寒い。

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スタート地点。

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前日説明会に参加。

コース説明や、その他の注意事項などを聞く。今回が初開催なので、スタッフの方もまだ手探りな印象。でも皆さん親切で一生懸命で、成功させてこのイベントを根付かせようという気持ちが感じられた。
ストライダーとして来られていたイナーメ山形の選手と中畑清監督によるトークや、じゃんけん大会などもあった。監督の話が面白く、終始なごやかな雰囲気。


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翌日の朝5時半に再び会場入り。スタートは朝の6時から。
自転車のセッティングなどをしていたら出走時間となり、あわててスタートラインに向かい、用意していた補給食をまるごと忘れるという、なかなかの出だし。


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参加者は見たところ200~250名くらい(?)。
初開催ということもあり、知名度はまだまだといったところなのかもしれない。
やる気満々のガチガチの装備の人もいれば、クロスバイクやマウンテンバイクで参加している人もいた。

コースは
「長坂フォンド(115km)」
「上ノ平フォンド(85km)」
「カヤの平フォンド(50km)」
の3種類が用意されており、自分は長坂フォンドに参加。


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スタート地点の標高は約1600m。気温が0度まで下がることもあると言われていたが、この日は天気にも恵まれ、そこまでは下がらなかった(とはいえ寒いことに変わりはない)。

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空が白んでくる中、西の方角に雪をまとった山脈が見えて幻想的だった。


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6時になり、いよいよスタート!

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コースの前半は下り基調。
この日のために防寒ウェアを揃えておいたが、それでも走り出してスピードが出ると一気に寒くなり、指先と足先の感覚がなくなりそうになった。


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ちょいちょいっと抜いたり、抜かれたりしながら進んでいく。

スタート地点周辺は冬景色。
標高が下がるにつれて秋に戻っていった。



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「カヤの平高原キャンプ場」にある最初のエイドステーションに到着。

ここで約24km。
気温も少しずつ上がり始め、身体が少しずつあったまってくる。


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りんごがとても美味しかった。

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補給を終え、出発。
気温は低いが空は真っ青に晴れ渡り、澄みきった空気が心地いい。

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山沿いの道を走っていく。いい眺め。

スタート地点と折り返し地点を除けばコース全体的に人家の気配はなく、本当に自然の中を走るといった感じ。
115キロの行程で信号はひとつもなしという贅沢コース


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43km地点にある第2エイドステーション。
野沢菜やまんじゅうなどをいただいた。

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この第2エイドから折り返し地点となる野沢温泉スキー場までのポイントが、一番勾配の急な坂となり、この区間だけはグループに分かれ、先導者がついての集団走行となった。

自分のペースで走れないのはやや残念だったが、走ってみるとカーブが結構急で、数は少ないが対向車なども来ることがあるので、慣れない走者などがカーブでふくらんだりする危険を抑えるためには仕方ない措置かなと思った。第一回ということもあり、とにかく安全に気を使っている印象。先導はゲストライダーとして参加されていたイナーメ山形の選手が行ってくれた。

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折り返し地点となる野沢温泉スキー場に到着。
1000mくらい下ってきたので、スタート地点に比べると大分暖かい。

ここからゴールまで下りてきた道を登りなおすので、これからが本番といった感じ。


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補給やトイレ休憩をして、10時前に出発。


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本格的な登りの始まり。

先頭集団はものすごい勢いで登っていったが、自分は後ろからえっちらおっちら。



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このあたりは紅葉していて見事な秋景色。


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路面状況は最高で、デコボコもほとんどなく、本当に走りやすかった。スタッフや町の方が、みんなでコースの落ち葉などを掃除してくれたのだとか。
これだけの長さのコースを掃除するのだから、大変だったに違いない。

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68km地点にある第3エイドに到着。

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芝生に座っておやきをいただく。野沢菜が美味しい。

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こんな風に乗りながら写真バシバシ撮ってる出場者は…自分だけだったかも(笑)

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紅葉のグラデーションが見事。

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90km地点にある最後のエイドステーションに到着。
ゴールまであと少し。

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午後2時過ぎにゴール!

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ゴール後にいただいたきのこ汁。
これがとにかく美味しかった。

思っていたよりタフなコースだったけれど、天気も景色も最高で楽しかった。

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平均時速。
獲得標高は2200mくらい。

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最高時速。

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走行時間(エイドステーションなどでの休憩時間をのぞく)。

6時スタートで14時ゴールだから、相当な時間エイドステーションなどで休憩していることになる。特産物食べてのんびりしすぎたかな?


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志賀高原のマスコットキャラクターの「おこみん」が来ていた。
おこみんは、けっこう可愛い。


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いいイベントでした。


(ちなみにこの翌年は参加者から「寒すぎる」との意見がよせられたこともあり、9月上旬の開催となりました)





続・クリス・フルームの自伝 ~ウィギンスとチームスカイ~


 数か月前に読み始めたクリス・フルームの自伝(The Climb)が、まだ最後まで読み終わらない。ただ、ようやく終盤までは来た。
 時間がかかってしまっている理由はいくつかあるのだけれど、その最大の原因はあるときからページがなかなか進まなくなってしまったことだ。
 アフリカ時代を語っていたときは無邪気さとおおらかさを感じさせていたフルームだが、ヨーロッパのレースで少しずつ実績を残し、やがてチームスカイへと加入すると、次第にその自我とプライドを言葉の端々ににじませるようになる。
 とりわけチームのエースであるブラッドリー・ウィギンスに対する嫉妬ともとれるような言及は執拗なほどであり、正直読んでいてきつくなることが度々あった。
 なぜブラッドだけが……なぜ皆俺を認めてくれない……
 思うように結果が出ない中でも、トレーニング時にはじき出したタイムやワット数などによって自分の力に自信を得たフルームは、自分はエースであるウィギンスに劣ることのない力を持っていると信じるようになる。
 自分が認められないフラストレーションはチームスカイのフロントにも向けられ、ウィギンス中心で組み立てられているチーム体系を彼は次のような言葉で語る。

……チームスカイではほとんどのことがうまくいっていたが、最初に立てられたプランはどこまでいっても変わることはなかった。特にそれがブラッドが絡んだプランならなおさらだった。彼はチームの上層部にいる人々との付き合いが長く、彼らとの間に友情を築いていた。つまりそういうことなのだ。

 さらにフルームのキャリアにとって大きな転機となったブエルタ・ア・エスパーニャでのリーダージャージ獲得の翌日、彼はさらにはっきりとチームの方針に対する疑義を言葉にしていく。
 レース前に行われたチームミーティングの中で、スタッフは前日のタイムトライアルにおけるフルームの走りについて次のように言及する。

「まったく最高の状態だな。総合順位の1位と3位にチームスカイのメンバーが入っているなんて。クリス、素晴らしいライドだったな! お前のどこにそんな力があったのか知らないが、とにかくお前はリーダージャージを手にした。大したもんだ」
 みんなが小さく笑い、僕も笑った。

 さらにミーティングは次のように進んでいく。

「それでは今日のステージの話に入ろう。このコースではこの区間に登りがある。いつも通りチームで集団の先頭を走れ。登りに入ったらまずシャビが引き、続いてトーマス、ダリオ、モリス、それからフルーミー*、そして最後にブラッドだ」
 僕はなにも言わなかった。ただ一瞬思考が停まり、それからこのように考えた。
 待ってくれ、順番が逆じゃないのか? ブラッド、それからフルーミーの間違いじゃないのか?
 違うのか?
 なるほど。僕はブラッドのためにここにおり、それがチームスカイというわけだ。これがあるべき姿ってわけだ。リーダージャージを着ているのは僕でも、状況はなにも変わっちゃいなかった。サンチョ・パンサは身の程をわきまえろということだ。

*フルーミー=フルームのチーム内でのあだ名

 自転車ロードレースでは風の抵抗を激しく受ける。
 風を受けて先頭を走る選手が100パーセントの力で走るとしたら、その後ろについて走る選手は70パーセントほどの力でついていくことが可能だとも言われている。
 もちろんこの比率は平地や登り坂によって変わるのだが、後ろについている選手のほうが力をセーブできることに変わりはない。だからチームの中にはアシストまたはドメスティックと呼ばれる選手たちがおり、率先して風除けになることでもっとも力があるとされているエースをレースの終盤までできる限り風の抵抗から守ろうとする。アシストたちにはもともと勝つことが求められていない。とにかく自分の力が尽きるまで一生懸命前で引くことが彼らの使命なのだ。
 エースはそういう意味では楽ができるとも言えるが、しっかり力を蓄えて最後で勝利または上位タイムをもぎ取らなければならないので、その責任は誰よりも大きい。自分の順位を犠牲にしたアシストたちに、チームとしての結果をもたらすことのできないエースは、遅かれ早かれエースとしての信頼を失うことになるからだ。

 ミーティングにおいてスタッフが発した選手の順番は、多少の前後はあるものの大まかにおいてチーム内でのヒエラルキーを意味している。まずシャビ(シャビエル・サンディオ)が先頭で風を受けて仲間を引き、ウィギンスは最後に控える。つまりチームが一番大事にすべき選手はウィギンスであり、フルームはその次、ということになる。リーダージャージを着て総合順位のトップにいるのは自分なのに、なぜ自分が最後でないのか、フルームが苛立ったのはそういうことだった。
「どこにそんな力があったのか知らないが……」というスタッフの言葉からは、この時点でチームがフルームの力を信用しきっていないことがうかがえる。昨日はたまたまいい走りをしたが、いずれボロが出て順位を落とすだろう。そんな不安定な選手のためにアシストを使い、ウィギンスを犠牲にすることはない……チームの見解としてはきっとそんなところだったのだろう。
 
 結局このブエルタでフルームはウィギンスのアシストという立場を守り、総合順位をひとつ落として2位で全21ステージを終える。優勝したのはスペインのコーボであり、フルームのアシストを受けたウィギンスは順位を上げることができず3位に終わった。
 このブエルタにおけるチームスカイの戦略はベストであったかは別にしても、妥当なものではあったように思う。ウィギンスに比べるとフルームには大レースにおける実績がほとんどなく、ものすごくいい走りをしたかと思えば、次の日に大失速して戦線から離脱していくといったことを繰り返していた。そのことはフルーム自身も認めており、これ以前のレースの描写ではどういうわけか自分には好不調の波が激しい、といったことを語っている。このミーティング前後で語られる、フルームの周囲にいる人々の描写を読んでいても、フルームがブエルタで総合優勝できる可能性があると本気で考えていたのは、(彼の家族などを抜きにすれば)あるいはフルームだけだったのではないかという印象を受ける。
 信頼とは徐々に作られていくものだ。結果を出すことで少しずつ、周囲の見方が自然に変わっていくものであり、自分から他者に強制するものではない。ウィギンスにはそれまでのレースで築いた信頼があり、フルームにはなかった。確かにフルームにはこの2011年のブエルタに勝利する可能性があったかもしれないし、あるいはチームスカイはその勝利に向かう道を見誤ったかもしれない。しかしそれはあとから言えることでもあって、自分を認めないチームやウィギンスに対する彼の恨み節は、やや行き過ぎているように感じた。

 ただこの翌年の2012年のツール・ド・フランスに関して言えば、多少その受け取り方も複雑なものになる。
 ブエルタで総合2位という実績を手にしたフルームは、サクソバンクやガーミン、アスタナといった名門チームへの移籍も検討するが、結局はチームスカイに残る道を選択する。フルームの言葉によれば、これらのチームへ移籍しなかった理由は言葉の壁(アスタナ=チームの母体言語がロシア語)と、ドーピングに対する警戒心(サクソバンク=オーナーであるビャルヌ・リースが現役時代にドーピングに染まっていた)などが大きかったという。
 チームスカイと2012年の契約を結ぶ際に、フルームはチームがウィギンスとフルームの2枚看板で行くことを了承したと言う。
 チームオーナーのデヴィッド・ブレイスルフォードとかわした会話を、フルームはこのように回想する。

 僕が覚えているのは彼がこう言っていたということだ。
「もし君がチームに残るのであれば、基本的に我々は君のツール・ド・フランス出場と、総合順位を争って走れる立場を保証する」
 あとになって考えてみれば、デヴィッドはうまいように言ったものだと思う。僕は彼が僕のツール・ド・フランス出場を許可し、勝ちにいってもいいと言ってくれたものだと思った。しかし彼はそうはっきりと言ったわけではなかった。代わりに彼は2人の男が総合順位を目指して走り、1人が正リーダー、そしてもう1人がそのバックアップとして走ると言ったのだ。そしてもし正リーダーに何かがあれば、2人目の男がその役割を引き継ぐと。

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 ならばこの「何かがあれば」とは、いったいどんな場合を指すのか?
 ウィギンスが落車してリタイアした場合を指すのか、それとも調子が上がらず順位を大きく落とした場合を指すのか。
 たとえば重要な局面でウィギンスの足がなくなって遅れた場合は、その「何か」ではないのか?
 ブレイスルフォードのこの曖昧な約束と、フルームの希望を含んだ思い込みが、将来的にフルームのフラストレーションをさらにかきたてることとなる。

 2012年のツール・ド・フランスで、僕にとって、いやおそらく多くのサイクルロードレースファンにとって強く印象に残っているシーンがある。
 それはある山岳ステージで、フルームとウィギンスが先行する選手を2人で追っている局面だった。きつい勾配の坂道をフルームが前を走ってウィギンスを引き、フルームは何度もウィギンスのほうを振り返っては、彼を鼓舞するように言葉を発している。
<カモン、ブラッド! 力を振り絞ってついてこい!>
 そんなことを言っているように見えた。
 ウィギンスはポーカーフェースを貫いていたが、かなり疲労していることがうかがえた。それに対しフルームは自分には力が有り余っているとでも言うように、きびきびと体を揺らしながら登っていく。そしていささか大袈裟にも見えるジェスチャーを混ぜながらウィギンスに声をかけ続ける。それはまるで、俺はまだまだ元気だぞ、一体エースはどっちだ、そう表現しているようにも見えた。
 僕はその様子を映像で見たとき、フルームというのはあまり性格のいい男ではなさそうだな、と思った。ウィギンスを励ますのであれば、静かに声をかければよいだけであって、これではまるでエースが疲れていることを強調し、彼に恥をかかせているようなものではないか。これはフルームの外に向けたアピールだろうと、そのように感じたのだ。僕のフルームに対するイメージの根本はこのときに作られたといっていい。
 しかし本を読んでいくと、このときのフルームの行動を引き起こす種が、契約の時点ですでにまかれていたことがわかる。

 ブレイスルフォードとかわした会話によって、自分が2012年のツール・ド・フランスを獲りにいく資格を得たと信じていたフルームは、やがて実際の状況が自分の想定と違っていることに気づき始める。

 世界選手権が終わって数日がたった頃、ブラッドが来年のツールを勝ちにいくという、自分の決意表明を発表した。そのことを聞いたとき僕はトレーニングの最中だったが、すぐに兄のジョノが電話してきた。
「ブラッドリー・ウィギンスはいったいなにを考えているんだ? ブレイスルフォードはお前もツールを勝ちにいっていいと同意したんじゃなかったのか? ブラッドはまるで自分だけがチームスカイの中でツールを狙う選手であるかのように語っていたぞ」
 ジョノは腹を立てており、僕も腹を立てていた。確かにブラッドは自分こそがツールを狙うチームスカイのリーダーであるかのように話していた。僕はデヴィッドに電話をかけた。
「話したことと違うじゃないか。僕にもツールを狙う資格があると同意し合ったじゃないか」
「ああ、わかっているさ。こいつは君のツール勝利への道を妨げるものじゃない。前にも説明した通り、我々は2本柱で総合順位を狙う。プランAがうまくいかなかったらプランBというわけさ」

 こうしたやり取りを経て、ウィギンスとの間には明らかな溝ができていったことをフルームは隠さない。

 ……ブラッドもまたミランにいた。もともと僕らはそれほど親しいわけではなかったが、以前には存在しなかった緊張がお互いの間に生まれていた。
 今では僕らは、お互いを戦う相手として意識するに足る理由を持つようになったのだ。
 契約のインクも乾ききらぬうちに、僕は自分のポジションに確信を持てなくなっていた。サラリーの面では素晴らしい条件を得ることができたが、チームはそのことで僕がすっかり満足していると思っているように感じられた。なんでも好きなことを望むがいいさ、フルーミー。それがブラッドの望まないことでない限りはな……と。

 フルームは現在もチームスカイに所属している。
 こんなに書いてチームとの関係は大丈夫だったのだろうかと心配にもなるが、この後もフルームのウィギンスとチームに対する恨み節は続いていく。
 ただ彼はウィギンスのことを人間としてはそれほど嫌っていなかったようにも思える。時折語られる彼のウィギンスに関する人物評の中では、ウィギンスのユーモラスな面なども語られ、それは読む者にウィギンスの魅力と頭の良さを感じさせる。ウィギンスはものすごく無口な男だった(あるいは少なくともフルームに対しては)ようで、心のうちをさらけ出して話し合うといったことをまずしないタイプだったため、それが2人の溝を拡大させていったところもあるのかもしれない。このあたりはウィギンスから見たフルーム評も読んでみたい。

 結果的に2012年のツール・ド・フランスはフルームの希望とは裏腹に、ウィギンスをエースとした体制で進んでいく。それに対しフルームはことあるごとに不満をもらし、山岳ステージとなった第11ステージではウィギンスを後方に置き去りにしてゴールしたりと、マスコミやファンの間に彼らの確執を憶測させるような話題を振りまいていく。
 チームスタッフやオーナーにその行動をとがめられ、気まずくなっていくチームの空気の中で不満を抱えながらアシストの役割を行い続けるフルームだったが、ステージ間の休息日にウィギンスとの間でこんな出来事が発生する。

 僕らはいつも通りチームで休息日のライドに出かけた。妙な雰囲気だった。そこには高揚感もなく、僕らが成し遂げつつあることに対する達成感もなかった。
 ただあるとき、ブラッドと一緒に並んで走る時間があった。そのとき彼は僕のほうを見て、こう言ったのだ。
「いいか、フルーミー。心配することはない。お前の番は必ず来る。俺たちは来年もここに戻り、そのときは俺たちみんながお前のために走ることになる」
 僕は彼のほうをちらりと見た。俺はこんな経験は二度としたくないと、彼はそう言っているようにも見えた。(中略)僕は彼の言葉に感謝した。それは普段のブラッドなら言わないような言葉だった。

 ウィギンスがこの言葉を本心から言ったのか、自分のツール制覇をかき乱すフルームを抑えるために行った空約束だったのか、本当のところはわからない。おそらく本当のところは本人にしかわからないだろう。フルームが様々な思いを抱えてツールを走っていたように、ウィギンスにもいろいろと思うところはあったはずだ。

 2012年のツール・ド・フランスは、ブラッドリー・ウィギンスが英国人として初のツール・ド・フランス制覇という偉業を成し遂げ、ウィギンスは英国の英雄となった。
 フルームは全体的に見ればアシストとしての役割を果たしたといってよく、ウィギンスに続く総合2位でツール・ド・フランスを終えた。

 そしてフルームにとって運命の年となる、2013年のツール・ド・フランスがやってくる。とはいえ、この先はまだ読んでいない。
 途中の恨み節を読むのがつらくて何度か中断したりしていたが、今はこのまま最後まで読み切り、フルームに対してポジティブな気持ちを持って読了できることを願っている。

 ツールの前月となる6月、フルームはランス・アームストロングが登坂トレーニングを行っていたことで有名なコル・デ・ラ・マドンというフランスの山に行き、ランスが打ち立てた登坂レコードである29分33秒に36秒遅れるタイムで登りきる。もっともランスがドーピングを行っていたことは周知の事実のため、ランスより遅いからといってそれが2人の優劣をさだめるものではない。フルームがクリーンであることを信じるならば、このタイム差はむしろその逆を意味するだろう。
 フルームは少し遅れて登ってきたチームメイトのリッチー・ポートと自分たちのタイムを喜びながら、自分たちの競技に深い影を落としたドーピングと、2013年のツールを迎える自分たちの様子についてこのように語る。

 僕たちはこのタイムのことを誰にも言うつもりはなかった。言うことで過去の亡霊を呼び覚ましたくなかったからだ。
 僕はリッチーのほうを向いて言った。
「このことは話せないな」
 僕たちはもうあの思いをしたくなかった。これまで何度も経験し、ついには痛みを通りこしてうんざりしていたからだ。
<よう、あの丘をパンターニよりも速く登ったらしいな。つまりお前は"有罪”ってわけだ
 もう憧れの存在などいらない。
 (中略)
 僕たちは幸せだった。自分たちがなにを成し遂げたかわかっていたし、それをみんなに言う必要性を感じなかった。そしてこのタイムは僕たちを鼓舞し、自信を与え、クリーンに乗ることに対する信念を深めさせた。
 リッチーが僕のほうを見て言った。
「準備は整ったな、俺たち。準備万端だ」
 それは2013年6月23日の日曜日のことだった。ツール・ド・フランスは6日後に迫っていた。


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(前半部分の感想です↓)

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